当サイトをご覧の方の中には、
まだ三国志についてほとんど知らないという方
もいらっしゃるかと思います。
そこで今回、
『三国志』ってどんな話なんだろう?
という方のために、おおまかに理解するためのまとめを作ってみました。
名づけて
『ざっくりとわかる三国志 Part.2』です。
今回はその前編、王朝末期の混乱の中から、
劉備(りゅうび)
曹操(そうそう)
孫堅(そんけん)
といった英雄たちが現れ、
三国志の時代の基礎を作りあげるまでを紹介します。
なお、このまとめは『三国志演義』(史実をもとに制作された小説版)に準拠しています。
歴史上の事実と、
フィクションである『三国志演義』では細部にいろいろな違いがあるのですが、
まずは
ストーリーとして有名な『三国志演義』の概要をざっくりと知った上で、
興味を持った部分から細かいところを攻めていく、
というのが
『三国志』を知る
良い方法ではないでしょうか?
前回をご覧になっていらっしゃらない方は、まずそちらからご覧戴くことをオススメします。
それでは、
ざっくりと行ってみましょーう!!!
曹操は袁氏を滅ぼす |
官渡の戦いで大敗した袁紹は大きく後退を強いられ、2年後に病死しちゃいます。
アディオス!袁紹!
袁紹の後を継いだのは三男の袁尚(えんしょう)でしたが、
長男の袁譚(えんたん)はこれに不服で、二人は対立することになります。
曹操は袁尚と袁譚の争いに乗じてこれを攻めます。
勝手に自滅していく袁家に
曹操は笑いが止まりません(笑)
まず先に袁譚が曹操に降伏
袁尚は次男の袁煕(えんき)と共に更に遼東半島を支配していた
公孫康(こうそんこう)を頼って落ち延びます。
しかし、曹操を恐れていた公孫康は二人をだまし討ちにし、その首を曹操に届けました。
こうして袁氏は滅び、
曹操は河北をその支配下において自身の権力を確立します。
三顧の礼をもって孔明を軍師に迎える |
曹操が袁氏を攻め滅ぼした頃、
劉備は南方、荊州(けいしゅう)を支配していた
劉表(りゅうひょう)のもとに身を寄せていました。
劉備は地元で名を知られた学者の司馬徽(しばき)と出会い
彼に『臥龍』(がりゅう)と『鳳雛』(ほうすう)
と呼ばれる二人の優秀な人材がいることを聞かされます。
劉備は“臥龍”こと、『孔明先生』=諸葛亮を自軍に迎え入れようと、
自ら進んで彼の住む庵に足を運びますが、なかなか会えません。
ようやく三度目にして劉備と対面した孔明は、
北部を平定して強大になった曹操や南東に一大勢力を持つ孫権(そんけん)と直接戦うのではなく、
まずいま劉備のいる荊州とその西に当たる益州(えきしゅう)を手中にして足元を固め、
その後に曹操の魏(ぎ)と孫権の呉(ご)と天下を争うべきであるという
『天下三分の計』(てんかさんぶんのけい)を説きます。
孔明の見識にほれこんだ劉備は彼を軍師に迎えました。
これが有名な『三顧の礼』(さんこのれい)です。
南方へ侵攻する曹操軍 劉備は呉と同盟して赤壁の戦い |
208年、河北を手中に収めた曹操は献帝から皇帝に代わって国を動かすことのできる
最高権力の地位である丞相(じょうしょう)に任命され、
いよいよ南方の制圧に本格的に乗り出します。
曹操軍の侵攻を前に、荊州を支配していた劉表が病死
後継ぎの地位を巡って対立が起こります。
この混乱に乗じて曹操軍は侵攻を進め、
劉備は更に南方の地、江夏(こうか)へと逃れます。
その頃、孫権は? |
曹操の荊州侵攻の様子を探らせようと、
呉の孫権は配下の魯粛(ろしゅく)を劉表の弔問を名目として荊州に送ります。
孔明はこれを好機と捉え、
劉備に呉の孫権と組んで曹操に対抗することを提案
魯粛と共に呉へとおもむき、孫権以下の呉の重臣との議論を制して同盟することに成功します。
呉軍は孔明と共に劉備の配下となった『鳳雛』こと龐統(ほうとう)の作戦を起用
揚子江の赤壁に集結した魏の艦隊を火攻めにします。
魏軍は大損害を出し、曹操は撤退せざるを得なくなります。
これが有名な赤壁の戦いです。
劉備が荊州を支配下に置き、 益州への侵出を図る |
荊州を支配下に置いた劉備は西の益州への侵出を図ります。
その頃益州では、その北方に位置する漢中(かんちゅう)の地を支配する
新興宗教の五斗米道(ごとべいどう)の指導者、張魯(ちょうろ)による侵略が懸念されていました。
張魯の侵攻を恐れた益州の領主の劉璋(りゅうしょう)は曹操に助けを求めますが、
配下の張松(ちょうしょう)は彼を裏切って、
劉備を益州に導き入れることを画策します。
曹操の助けを得られなかった劉璋は劉備に援軍を求めてきます。
劉備はその機に乗じて益州へ軍勢を進めますが、その最中に張松の裏切りが発覚
彼は死罪となり
劉備に付き従った龐統は落鳳坡(らくほうは)という場所で戦死してしまいます。
荊州の留守を預かっていた孔明は張飛を援軍に送り、
体制を立て直した劉備軍は益州を掌握、劉璋は降伏します。
曹操と孫権の争いはこう着状態に |
劉備が益州を攻略している頃、
一時的に曹操と停戦していた孫権が軍を動かし、
魏の攻略に乗り出します。
魏と呉の国境に当たる合肥(がっぴ)城を孫権は大軍で包囲しますが、
城を守る武将、張遼(ちょうりょう)や楽進(がくしん)の奮戦によって敗北、
魏と呉の争いはこう着状態に陥ります。
漢中を支配していた張魯の降伏を受けた曹操は、益州の劉備討伐に乗り出します。
しかし、劉備は孔明の作戦に従い、曹操軍を大敗させて漢中を手中におさめ、
献帝から漢中王(かんちゅうおう)に任じられます。
ここに孔明の考えた『天下三分の計』は成立したかに見えましたが……。
関羽が敗死し、劉備は荊州を失う |
曹操と不可侵条約を締結した孫権は、西暦220年、荊州奪取のため、
配下の呂蒙(りょもう)に侵攻を命じます。
呂蒙は荊州城にいた虞翻(ぐほん)や糜芳(びほう)を説得して城を占拠。
荊州の守りについていた関羽は曹仁率いる魏軍と呂蒙の呉軍に挟み撃ちとなり、
敗走の上に呂蒙に捉えられ、処刑されてしまいます。
呂蒙は討ち取った関羽の首を曹操に贈りますが、
曹操は関羽の亡霊を恐れるようになり、
衰弱した上に死んでしまいます
関羽を討ち取った呂蒙も、関羽の呪いを受けて死に至ります。
曹操が死に、後を継いだ曹丕が皇帝の座に |
曹操亡き後を継いだ曹丕(そうひ)は献帝に帝位を譲ることを迫り、
献帝は曹丕にその地位を明け渡します。
漢王朝400年の歴史に幕が降り、
新たに魏王朝が誕生します。
劉備、蜀の皇帝となる |
漢王朝がついえたことを受け、孔明は劉備に帝位につくことを進めます。
劉備は孔明の提案を受けて皇帝へと即位し、
蜀(しょく)を建国します。
関羽の仇を討つ為に呉へと出兵 |
関羽の仇討ちを諦められない劉備は、呉へと出兵します。
しかし、その最中、
張飛に暴力を受けた配下の者が彼を暗殺するという事件が置きてしまいます。
劉備は関羽の息子である関興(かんこう)と、
張飛の息子である張苞(ちょうほう)を従え63万の大軍を持って呉の軍勢と激突します。
呉軍は多大な損害を受け、劉備との和平を図りますが拒絶されてしまいます。
呉の窮地を救う陸遜(りくそん) |
孫権から新たに総大将に命じられた陸遜(りくそん)は
劉備の軍勢を火攻めで打ち破り、劉備は白帝城(はくていじょう)へ撤退を余儀なくされます。
劉備は心痛のために病の床につき、
孔明に後のことを託して息を引き取ります。
孔明、劉禅に『出師の表』を捧げて 魏討伐の軍を起こす |
劉備の死後、
皇太子であった息子の劉禅(りゅうぜん)が蜀の皇帝の地位に就きます。
孔明は蜀の「後顧の憂い」(こうこのうれい)であった南方の孟獲率いる蛮族の平定に乗り出します。
孟獲は7度にわたって孔明に囚われますがその都度解き放たれ、ついに孔明に心服し、蜀に降伏します。
南方討伐を終えた孔明は、魏を打倒することを決意
その心情を『出師の表』(すいしのひょう)にしたためて劉禅に捧げます。
ここから、孔明の五度に渡る魏攻略=北伐(ほくばつ)が始まります。
『ざっくりとわかる三国志』(2)まとめ |
■袁紹ドロップアウト
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■赤壁の戦い
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■夷陵の戦い
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■孔明による北伐
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『ざっくりとわかる三国志』(3)に続きます。
乞うご期待!
この記事を書いた人 |
ライター:
石川克世
自己紹介:
三国志にハマったのは、高校時代に吉川英治の小説を読んだことがきっかけでした。
最初のうちは蜀(特に関羽雲長)のファンでしたが、次第に曹操孟徳に入れ込むように。
三国志ばかりではなく、春秋戦国時代に興味を持って海音寺潮五郎の小説『孫子』を読んだり、
兵法書(『孫子』や『六韜』)や諸子百家(老荘の思想)などにも無節操に手を出しました。
好きな歴史人物:
曹操孟徳
織田信長
何か一言:
温故知新。
過去を知ることは、個人や国家の別なく、
現在を知り、そして未来を知ることであると思います。
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